古都の師走

1988年12月

◎旅立ち前に
「29日から30日に一泊お願いしたいんですが・・・」
「今年は30日から休もう思ったんやけどなあ」
「お休み、ですか」
「食事なしでよかったらええけど」
「あ、構いません。お願いします」

◎物事は始まるまでが
 楽しみな物事というのはたいていはそうだと思うのだが、その本番の時よりも本番までがいいのではなかろうか。例えば盆と正月。普段は年寄りばかり目立つ山村であっても、盆・正月だけは若者が帰ってくる。久しぶりに会う、子や孫に想いを馳せ、老いた両親は準備に余念がない。そんなときの人々の顔は生き生きしている。そして、盆・正月が来てほんの一時のにぎわいが訪れた後、村は再び静かになる。これは寂しいものであろうと思う。となると「準備段階」の方がいいという訳である。
 本来「準備段階」には当事者として参加するのが一番であろう。しかし、無責任な立場でこれを「鑑賞する」というのも、いかにも学生らしい楽しみ方でいいと思う。師走の町は来る正月のために生き生きと躍動している。同じものであれば、生き生きとしているときの姿がもっとも美しく、かつ見るものの目を眩ませる。ま、どうせ旅の印象というものは誤解や思い込みに過ぎない。であればそう冷静に見れなくても構わないであろう。というわけで、師走の町を旅するのが私のここ数年来の習慣となっている。

◎餅屋が象徴
 「暮れは休む」予定だった旅館は奈良市街の南東、元興寺の斜向かいにあった。冬の奈良は冷え込む、などと言うが諏訪に比べればさほどではない。冬は多少冷え込んだ方がすっきりしていい。
 「食事はなし」ということであるから、支度を整えると宿の家族がホカホカと朝食を取っている横を早々に旅立つ。昔ながらの木造のしっかりとした造りの家屋であった。その割には、宿泊情報の隅に「安い」などという広告を出しているだけのことはあって値段は高くなかった。
 宿を出れば目の前には元興寺が姿を見せる。先に来たときは早すぎて閉まっていたが、今日はちょうど門が開いたところで、さっそく入ってみる。元興寺。正確には元興寺極楽坊である。元は飛鳥の法興寺(飛鳥寺)であり、平城遷都と共にここへ移ってきた。かつては広大な敷地を誇ったがほとんどが消失し、現在はそのごく一部である極楽坊のみが残存する・・。というところか。どうせ滅びるなら飛鳥の山田寺のように石だけになってしまった方がいい。この滅び方は中途半端である、と、無責任だから何とでもいえる。
元興寺を出て東へ向かう。「師走の町の雰囲気」といっても多分に自己の気分的なものが大きい。だが、その中で物証としてもっとも「らしさ」を感じさせてくれるのは「餅屋」ではなかろうか。今時「餅屋」などというものが商売をやって行けるのかと思うのだが、師走の町ではよく目につく。いやににぎにぎしく湯気をもくもくしているのがそれである。昨夜町を歩いたときも夜遅くまで働いている餅屋があったし、今朝も一つ、二つ忙しそうな餅屋が目につく。師走の象徴である。

◎二年参りを前に
 新薬師寺から、志賀直也の旧居を経て「ささやきの小道」を歩く。この前ここを歩いたのは中学の修学旅行の時。まわりには人があふれ、とても「ささやく」状況ではなかった。そして、今日。師走の奈良郊外をぶらつく者などさすがに少ない。雰囲気はいいが、ささやきかける人がいない。
 ささやきの小道を抜けると、春日大社の赤い神殿が見え隠れしてくる。寺と神社とでは寺の方が好ましい。神社は国家神道のイメージが強いせいかも知れないが、何より極彩色が好ましくない。大きな神社では「式年遷宮」というものをやるために、建物が割に新しいのだ。訳もなく古いものが好ましい私の趣味から行くとこれはよろしくない。よろしくない、よろしくないと思いながらも鳥居をくぐって神前で二礼二拍手一礼。形式が好きなのかも知れない。見回すと、あたりの手すりには真新しい布が巻かれ、幕を張った拝殿の奥では巨大な賽銭箱の用意が為されているようであった。二年参りの人々でこの境内が埋め尽くされるまで、あと30時間余である。


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